小さな子どもに飴やチョコレートをあげ続けることは良くないことだと誰でも認識できます。

一時的に欲しいものをあげてその子が喜んだとしても、

それは長い目で見れば虫歯の元。

虫歯は更に多くの問題を引き起こしていきます。

しかし、喜ぶ顔が見たくて、ついついやってしまう事でもあります。

いっぺんで子どもに好かれ自己満足欲満たされます。

一方、私も子どもを育ててみて、

責任を持って自分の足で立てる子どもに育てる事が

いかに子どもに不評かはよくわかります。

 

私の娘たちが赤ちゃんの時、

「父の部屋に行くと泣き止む」と評判をよびましたが、

タネを明かせば、父はおしゃぶりがわりに氷砂糖を舐めさせていた事が後から判明しました。

私にはあんなに厳しかったのにwww

私は、必死に歯磨きをし毎月嫌がる歯医者での検診に連れて行き、

あの頃は、泣かれたけれど、

今だに2人とも一本も虫歯のない状態です。

私だって泣かれるよりは甘やかしたほうが楽だったけれど、

将来のことを見越せば心を鬼にして歯ブラシとフロス片手に毎晩格闘でした。

 

私の「上」も同じように、

決して表面上の「甘やかし」はありません。

以前は、見えない声が聞こえる人たちが、

「いつも愛で包まれています」

とか

「貴方はそのままで完璧です」

「貴方は頑張っています」

「素晴らしく成長しています」

とか愛溢れる優しい言葉を言われているのを聞くと、

なぜ私には「あっちに行け、こっちに行け、これを作れ」

と用事を言いつけたり、

必要最小限やり取りしかないのだろう?

なぜ、優しい言葉1つかけないのだろう?

と不思議に思っていました。

感情的なやりとりが一切ないのです。

今思えば、そのシンプルな姿勢が私の足腰をつけてくれた事に気づきます。

上の要求をこなしたからといって、周りからすぐに褒められることもなく、

評価もありません。

しかし、日々、感知できる領域は広がり、深くなり、

世界はさらに広く、私が感知できるのその中のほんの一部だという事がわかるようになりました。

一歩づつ確実に先に進む方法を教えてくれ続けているのです。

「上」に褒められたいという思いもなくなり、

むしろ周りに褒められる事で足をすくわれやすい自分の心にこそ注意を払っています。

 

守護や庇護があるうちは、

その存在からの評価を気にしてしまう傾向にあります。

しかし、自分の足で立つには、

外からの如何なる評価によっても揺らがない自分が必要になるのです。

 

そして、

「いま表面的に幸せになる」よりも

「自分の足で立てるように導く」

事こそが、より難しいことです。

その真価がわかる時には、

それを評価されることもなく、すでにいなくなっているかもしれません。

それでも、私たちは進化の為にその道を歩まなければなりません。

これは人間に対してだけ言えることではなく、

地球に対しても同じこと。

政治に対しても同じこと。

表面的に繕って評価を得るよりも、

先の先まで見越して行動しなければなりません。

今の幸せだけを求めて、キリギリスのように生きていれば、

あっという間に手遅れになることは、

今の環境問題を見ていてもわかります。

 

対象のある愛と全なる愛

これはまた少し違った角度からの捉え方です。

少しはヒントになるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

team0x’s blogより転載