身体に叡智を宿す

 

6月13日(土)15:10〜16:45 地に足をつけ直すは、施設の都合でお休みです

                     11:00~14:30  医療従事者・エーテル塾合同クラスはzoom配信になります

 

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ちょうど昨年6月の「地に足をつけ直す」の月テーマが

『足に叡智を宿す』

という壮大なものでした。

 

『足に叡智を宿す』

という非常に高度な身体のあり方をお示しいただき、

「あと、どの位お稽古したら足に叡智が宿るのかしら」と途方に暮れ続けているのですが、

この「足に叡智を宿す」という言葉がどうしても頭から離れず、

ずっとこの言葉と共にいました。

 

そして、連想ゲームのようにそこから派生して、

「身体に叡智を宿す」

に辿り着きました。

 

 

これは、身体とエネルギーのお話です。

(ですから、先生の仰る「足に叡智が宿る」の方はまだまだ暗中模索状態)

 

叡智とは何だろう?

大辞林には、叡智とは

① すぐれた知恵。深い知性。 「 -にあふれる」
② 〘哲〙 真実在や真理を捉(とら)えることのできる最高の認識能力。

とあります。

私的には②を選択したいところです。

 

身体に叡智を宿す

エネルギー的に見れば、

身体を器として神聖なエネルギーがその器を満たし、

その神聖な叡智によって生きる。

こんな感じです。

 

古今東西、身体という器に宿した叡智によって、

様々な情報が世の中に出ています。

本当に素晴らしいものから、

「どう見ても、アストラルのもの」

まで。

叡智とは、それを認識する人間のもつ世界観によって範囲が変わるのかもしれません。

 

どんなに素晴らしいものでも、

器となる人間の背景によって、

例えば、赤い色が

赤だったり、redだったり、rojoだったり、透き通っていたり、光っていたり、マットだったり、血のような濃厚なものだったり…

と、捉え方も様々です。

同じものが身体という器に叡智として流れ込んだとしても、

流入する段階でも器の微妙なエッセンスがプラスされてしまうように思われます。

 

また、それを言葉として表現したり、音楽として表現したり、アートとして表現したり、

排出するときにも様々なエッセンスが加わります。

 

叡智を宿しながらも、

ついつい自分の世界観でその情報を見てしまうことは致し方ないことでもあります。

 

私も試行錯誤し続けています。

なるべく「自分の世界観」を付け加えないように。

どうしたら、自分色を出さないでいられるか

これが、ここ最近のテーマです。

言葉にすればどうしても言葉を選ぶ段階で色づけされてしまいます。

そんな中で今のところ1番しっくりくるのが、

エネルギーとして受け取った叡智を自分の情報を付け加えずに、

そのままの状態で伝達することです。

 

それができるのが、

ヒーリング(人を霊的な全体性へ戻す)

というエネルギー伝達方法

ではないかと思うのです。

 

何も付け加えずに、

ただただ、循環し流れているものの中に身を置き、

その循環を伝える。

 

自分色を出せば、

それは作品であり、

何らかの主張が生まれます。

「何者でもない」

からこそ、最も純粋なエネルギー伝達がなされるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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[今後の予定・お知らせ]

 

4月以降のスケジュール

4月以降第2土曜日11時〜は、医療従事者クラスとエーテル塾合同クラスとなります。

 

 

 

 

 

 

team0x's blog より転載