さて、

「ガリゴンパの御堂に入れば誰でも意識状態の変容が起こるのか」

という問いがありますが、

今回一回も御堂に入らなかったビルさんを見ていると、

「変化することに対する恐れ」

「あの真っ暗な中のパドマサンババの目が怖い」

「飽きてしまう」

などそこには様々な要因があるかと思われます。

(ビルさんは和尚やクリシュナムルティ のファンデーションにまで参加していた人なので、こうしたことに興味がないわけではない。しかしエネルギーレベルが落ちるとそれどころではないのかも)

 

『溢れる情報の海で選択することすら忘れてしまっている心やさしき現代人』

にとっては、

自分の形態(身体)心(想念)エネルギー(周波数の選択)

これらすべてを何もないところで、自分で選択しアレンジすることは困難なのかもしれません。

「何でも簡単に効率的に!

そうする為には感情に引きずられず麻痺させる」

近代はこれを目指してきたのですから。

ここは、近代の3種の神器(冷蔵庫、洗濯機、掃除機)すら見たこともなく、

あったとしてもそのための電源がありません。

衣食住あらゆる面で利便性とはベクトルが反対を向いています。

必然的に

「自然」と「心」そして「身体」と向き合わざるを得ません。

それができなければ無限の「暇を持て余す」ループに入っていきます。

 

 

茶の本では、

水の選び方、沸かし方、点て方、味わい方について述べられていますが、

その繊細な観察眼こそが、

エネルギー観察のための最大にして唯一の手法に思えます。

最終的に

「その味わいはまさに神の飲み物、天の甘露だ。羽の様に薄い茶の葉は晴れ渡った空に浮かぶうろこ雲か、エメラルドグリーの流れに浮かぶ睡蓮の様」

という記述にたどり着くのです。

 

そして、

唐の詩人盧仝(ろどう)が詠んだ茶の漢詩の1部


その2

 

1服目は唇と喉を潤し

2服目は孤独感を忘れさせてくれる

3服目枯渇していた詩心を掻き立てられる

4服目うっすらと汗ばみ日常の心が毛穴から抜け

5服目心身が浄化され

6服目不老不死の境地

7服目これ以上はもう飲めない

ただ袖を吹き抜ける風を感じるのみ。

蓬莱山はどこにあるのだろう。この風が導いてくれるだろうか。

 

こうした重ねていく味わい方こそがエネルギーの周波数感知。

ゴンパでの一息毎に感じる味わいに集中していけば、

そこに存在する様々な層と

自分の中が次々に解けていく無限の組み合わせが生まれるのです。

そして、この無限の味わいを最も色濃く感じさせてくれるのが、

ここ

なのです。

 

利便性を手放して初めて生まれる自分とそして神聖との向き合い方です。

 

 

 

 

 

山本ユキブログ「イシスの息吹」より転載
http://yukiyamamoto.hatenablog.com/entry/2018/12/19/094111