超ヒモ空間1 シンプルなエネルギーの世界

 

2022年 12月10日(土) 蕨市民体育館

地に足を着けなおす 15:10〜 

医療従事者クラス・エーテル塾 11:00〜

舞扇・仙骨尺などグッズをお忘れなく。

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私はこの世に馴染めずに生きてきた。

「どうして生まれてきたのだろう」

と、ことある毎に思ってきた。

この世に生まれる前の『存在』との分離は、引きちぎられるような悲しみであり、

いつまで経っても「置いていかれた」という分離感が拭えなかった。

そして、肉体を「私」と認識して生きるのは。

『存在』の状態の質感が薄れていく事と比例していた。

 

 

 

10歳の時、転校生によって、

しっかりと肉体の中に生きる事を選択する機会を与えられ、

私の比率は徐々に肉体の中にいることが多くなった。

当初はギクシャクした肉体との関係も、

段々と乗りこなせるようになり、

肉体を乗りこなして「何かを成し遂げていく達成感」が、

存在の質感を上回っていった。

 

しかし、

3つ子の魂とも言える生まれてから10年の間の感覚は、

完全に消えることはなかった。

肉体の中での達成感を存分に味わっていた30歳を前にして、

私は西洋医学では対処できない原因不明の頭痛から、

このエネルギーの世界に再び目を向けるようになった。

 

この世で見えないエネルギー世界を好む人が、

何故だか、自らの肉体とエネルギーを明確に分別しないこと。

そして見えるものも「人間と同じ風貌のエネルギー存在」の状態が殆どである事。

という不思議に気づいた。

なんという事だろう。

10歳からエネルギー認識から遠ざかっていた私から見てもそれは幼稚な認識だ。

「私」という自分の範囲でしか通用しない眼鏡でエネルギーを表現している奇妙さは、

まるで子どもが『リカちゃんハウス』という限定されたおもちゃの空間で、

一時それが本当のことであるかの様に、その世界を楽しんでいるようにしか見えなかった。

 

エネルギー界を表現する人に何人もお目にかかったけれど、

「特定の約束事の上に成り立つ見えない世界」

という共通項があり、

それは私にとって、人形遊びの空間内で登場人物を友達同士に割り振って遊ぶような

奇妙に限定された認識にしか感じられなかった。

なぜ実際にそこにあるエネルギーには目を向けず、

パッケージ化された「神」(擬人化された)「霊」「オーラ」「龍」「神社仏閣」「パワースポット」

etc,,,が好きなのだろう。

なぜ、それを崇めるのだろう。

 

身体があるエネルギー状態で認識されるのであれば、

ただ肉体がないというだけで、生きている人間とさして違わないエネルギー状態なのに。

 

なぜ「愛」は空間に存在するものなのに、

わざわざ色をつけて刹那の愛とも言える限定された自分の尺度の愛を「愛」と言ってしまうのだろう。

 

 

 

子どもが「リカちゃんハウス」で遊ぶように限定された世界感なのに。

その情報に大金を払っている。

何故だろう?

 

「確かにあるよね、でもそれは全体の中のほんの一部に過ぎないよね」

しかし、多くの人はその情報に動かされる。

何故だろう?

 

力の大きさや多数決で決まるこの世の中で、

肉体に収まる不自由さと同じように、

この世でエネルギーを語る人たちに息苦しさを覚え続けている。

 

 

シンプルなエネルギー認識はどこへいってしまったのだろう。

 

 

そこに存在するエネルギーは、

決して限定されない。

だって物質ではないのだから。

私たちエネルギーの世界を認識しようとするものは、

このエネルギーの世界が無限に続き、

知れば知るほどに果てはない事を知り、

自分が如何に小さな存在かを謙虚に受け止めることで、

更なる世界を開くことができるのだ。

 

 

 

クラススケジュール

http://blueprintjapan.com/archives/info/057

 

 

 

 

team0x's blogより転載